10月18日(土)なかがわちひろさん*コヨセ・ジュンジさん ギャラリートーク&サイン会

10月18日(土)の午後、「おたすけこびと」シリーズ(徳間書店)の作者 なかがわちひろ さん(文)、コヨセ・ジュンジさん(絵)、そしてスペシャルゲストに「おたすけこびと」シリーズの編集者 上村令さんをお迎えしてギャラリートークを開催し、誕生秘話や制作のお話をお聞きしました。

「おたすけこびと」チームのなかがわちひろ さん・コヨセ・ジュンジさん・上村令さん

 なかがわちひろ さんが、娘さんのために描いた初めての絵本が『のはらひめ』(1995年 徳間書店刊)、その後、息子さんのために描いた絵本が『きょうりゅうのたまご』(2000年 徳間書店刊)で、絵本の中に重機が登場します。構造物を描くのが苦手だったのですが、「頑張って描いたのですよ」となかがわさん。

この絵本を描くときに、当時の編集者の米田さんと富士山の麓にあるコマツテクノセンタへ取材に出かけました。窓から重機を見ながら、この重機を使ってケーキを焼いたらいいわねと話したのがきっかけで、それが次の絵本になることに! でも、重機の絵は描けないと言うなかがわさんに、米田さんは画家のコヨセジュンジさんを探しだしてくれました。当時、コヨセさんはイラストレーターとしてオートバイの雑誌の絵を描いていたのですが、オートバイのたくさんある線を生き生きと楽しく描いているコヨセさんの絵に賭けてみたいと米田さん。こうして作者のなかがわさんと画家のコヨセさんが出会うことになりました。でも、この時点ではまだお二人は会ってはいなかったそうです。

重機の絵は、かなりこだわって描かれていたものの、こびとにはなかなか顔が描かれておらず・・・重機にあまり関心のない家族にもみんなが楽しめる働く車の本を作りたいと思っていたなかがわさんにとっては、こびとは重要な存在でした。なかなかこびとを描けなかったコヨセさんでしたが、ある日、見返しの絵を描いてきたときに、そこには可愛いこびとがいたのです。自分が幼稚園児だった頃を思い出して描いたとコヨセさん。コヨセさんがこびとのお父さんになった瞬間でした。

編集の米田さんが2004年のスマトラ島沖地震で急逝し、なかがわさんはもうこの絵本はできないかと思ったそうです。でも、米田さんの遺志をついでくれたのが米田さんの盟友の上村令さんでした。それから、なかがわさん、コヨセさん、上村さんの「おたすけこびと」チームの妥協のない厳しい仕事が再開し、ついに2007年2月に『おたすけこびと』が誕生しました。絵本が誕生するまでになんと4年半の年月が流れていました。

刊行後、打ち上げの時になかがわさんとコヨセさんは初めてお会いしたそうです。それ以来、3人の「おたすけこびと会議」が続いているとのこと。

その後の『おたすけこびと のクリスマス』『おたすけこびとのまいごさがし』『おたすけこびととハムスター』『おたすけこびととあかいボタン』『おたすけこびとのにちようび』『おたすけこびととおべんとう』、そして最新作の『おたすけこびととやんちゃなこいぬ』の制作秘話をお話くださいました。

中でも印象的だったのが、3人でこびとたちは見返りに何をもらうのかという話になった時に、コヨセさんが、「見返りは何もいらないのでは。こびとたちは何かを成し遂げるのが楽しいと思ってやっているのだから。幼稚園の子がごっこ遊びをしている感じでよいのではないだろうか。」とおっしゃったとのこと。だからこそ、こびとたちは楽しそうにいろんな知恵やアイデアをだしながらミッションを解決しているのですね。

コヨセさんのサインは、似顔絵も描いてくださるので、皆さん大喜び! 大切な一冊になりましたね。

なかがわちひろ さん、コヨセジュンジさん、上村令さん、3人の信頼と子どもたちのためにと譲れない厳しい仕事ぶりが、子どもから大人まで楽しめる絵本を作り上げていることを改めて知りました。だから、日本のほか世界で7カ国語に訳され、100万部を超える大人気の絵本となったのですね。

1冊の絵本が出るまでには、時として大変なドラマがあるのですが、刊行されるとそんなことを感じさせない自由で楽しい絵本として子どもたちに愛されるているのがすばらしいなって改めて思いました。

なかがわちひろ さん、コヨセジュンジさん、上村令さん、ありがとうございました。
参加くださった皆さん、ありがとうございました。

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